2026年1月、米国のトランプ大統領は、66の国際機関からの脱退を表明した。気候変動や人権、開発や平和と言った問題は、一国だけでは解決できない。国連の創設と共に国際協力の中心にいたアメリカがこのような決断をしたことで、国際社会に大きな衝撃を与えた。
しかし、この出来事を単に「国際協調を軽視する政治姿勢」として嘆くだけでは、十分ではない。戦後、国連を中心とした国際協力の枠組みは、アメリカが中心的な役割を果たしつつ構想されたものである。にもかかわらず、なぜアメリカが自ら深く関与してきた国際機関から脱退するのかを考える必要がある。
戦後の国際機関は、「リベラル国際主義」という考え方の下で構想されてきた。国際法、国際制度、人権、協力といった枠組みを通じて、力の行使に一定の制約をかけようとする考え方である。その一方で、表向きには、ルールに基づく平等な国際協力が掲げられたが、実際には、アメリカを中心とする先進国が主導権を握り、自国の価値観や利益を反映させやすい仕組みであった。アメリカはこの秩序の中で、国際機関を自国の影響力を広げるための重要な道具として使ってきた。
ところが近年、その前提が崩れ始めた。中国やグローバルサウスの国々が力をつけ、国際機関の中で発言力を高めるようになったことで、アメリカの意見は必ずしも通らなくなってきた。
さらに、人権や環境の分野では、市民社会や国際NGO が強い影響力を持ち、アメリカ自身が批判の対象になる場面も増えた。
アメリカが国際機関から脱退した理由は、国際機関がアメリカにとって不公平だったからではなく、国際機関がもはやアメリカの思い通りに使える場ではなくなったからである。言い換えれば、アメリカの行動は、国際協力そのものを否定したというよりも、「自国が主導できない国際協力」への拒否反応だと言える。
この点を踏まえると、リベラル国際主義そのものを問い直す必要が見えてくる。国際協力が、本当に半等で自由なものであったら、主導権が分散しても受け入れられたはずである。しかし実際には、主導権を失った途端に距離をとる国が現れた。リベラル国際主義が理想的な協力の形というよりも、強国が主導権を持つことで成り立っていた秩序だったことを示している。
その意味で、私たちは「リベラル国際主義が壊れてしまった」と嘆くのではなく、そもそもそれはどこまで自由で、どこまで国際的だったのかを問う必要がある。今求められるのは、アメリカの脱退を残念がることではなく、国家の力関係だけに左右されない、より開かれた国際協力の形をどう作っていくのかを考えることである。国家だけでなく、企業、市民社会、私たち一人ひとりを含めて、誰のための国際協力かを考えることが必要だ。リベラル国際主義は、現実政治の前では無力に見えることも多いが、それでも国家がリベラルな言語を使い続けるのは、力だけでは正当化できない領域が、確かに存在するからなのだ。