The World Commentary No.73

日本の平和運動とカナダ・メソジスト教会

東欧で戦争が続いている。中東・ガザでも斬撃に目を覆う悲劇が続いている。国益を巡る戦いに対して、長い議論を続け反戦・平和への希求は全世界で共有されていたはずなのだが。

日本でも平和希求の共有には長い時間を要した。その事始めに触れてみたい。まず日本の平和運動の黎明期にはカナダ・メソディスト教会が深く関わっていた。近代戦争は武器の精鋭化で罪なき人も巻き込む。普仏戦争を目の当たりにしたヨーロッパでクリスチャンの平和運動が活発化した。世界に平和達成のために伝導師派遣をはじめ、日本にはクェーカー教徒であるジョーンズ師が来日して、平和を訴える講演会を開催した。これが日本における最初の平和運動とされる。明治22年夏、東京京橋区の厚生館で開催された講演会の司会は加メソジスト宣教師Dr.マクドナルド(医師)だった。マクドナルド師は、最初にカナダから第一陣日本に派遣され、来日2年後に静岡教会を設立するなど活躍した。東洋英和女学院の創始者、マーサ.J.カートメル先生のドキュメントにも度々登場する古参の宣教師だ。この講演会に対し機敏に反応したのは、加メソジスト下谷教会に在籍していた加藤万治(かずはる)である(静岡教会にも所属時期あり)。この講演を傍聴した友人で同じクリスチャンである作家、北村透谷を誘い平和運動の準備を進める。加藤らの行動は早く、クェーカーの宣教師Wプレスウェイドも加え同年11月には「日本平和会」を設立し、機関誌「平和」を発行した。透谷による「平和発行乃辞」は次のように始まる。「平和の文字甚だ新たなり、基督教以外に対しては更に斬新なり。加ふるに世の視聴聳やかすに便ならぬ道徳上の問題である。・・・大理を破り邦々相傷ふを以て、人類の恥辱之より甚しきはなしと信ず。」

その後同会は「大日本平和会」と改組され継続された。加メソジストがその影響力をもって、他教派と連携し、日本に平和を希求する種を蒔いた一員だったことは確かだ。透谷は上記で続けていう「戦争は政治家の罪にあらずして、人類の正心の曇れることに囚つてなることを記憶せられよ」。

カナダ・メソジストが日本での平和運動の嚆矢であることを誇りとして、「誰かのために、まず私から」、英和スピリッツが発揮されるのは「今」だと思う。