講演録・記録 第4回

「金利のある世界」に日本はどう向き合うのか

開催日 2026年7月31日(金)
講師 松本栄子 (東京大学先端科学技術研究センター 連携研究員)

東洋英和女学院国際関係研究所主催 連続講演会「グローバルリスクと社会―不確実な世界を生き抜く」

世界が大きく変化し、これまで当然と考えられてきた制度や社会のあり方が揺らいでいます。本連続講演会では、政治、経済、国際関係、社会など多様な視点から、現代社会が直面する「グローバルリスク」を考えます。

※本稿は講演内容をもとに、ウェブ掲載用に構成・編集したものです。

講師プロフィール

松本栄子(まつもと・えいこ)
東京大学先端科学技術研究センター連携研究員。1993年に株式会社東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に入行し、長年にわたり外国為替業務に従事。

2012年に東洋英和女学院大学修士(社会科学)、2020年拓殖大学大学院国際協力学研究科博士後期課程修了、博士(安全保障)。2024年より東京大学先端科学技術研究センター連携研究員。安全保障を専門とし、主として米国の経済制裁や、外国為替業務を安全保障の視点から捉えた研究に従事。


概要

長くデフレと低金利が続いてきた日本経済は、いま大きな転換点を迎えています。物価が上がり、賃金が動き始め、日本銀行も超低金利政策からの正常化を進めています。一方で、円安による輸入価格の上昇や、地政学的な緊張によるエネルギー価格の高騰など、家計や企業を取り巻く環境は厳しさを増しています。

外国為替業務に長く携わり、経済制裁や安全保障を研究してきた松本栄子氏は、本講演で、日本経済がなぜ長期のデフレに陥り、そこからどのように「金利のある世界」へ移行しつつあるのかを、為替、物価、賃金、金融政策、国債市場という複数の視点から考察しました。

本講演は、現在の円安や物価上昇を一時的な現象として見るのではなく、グローバル化の後退や日本経済の長期停滞を背景とした、より大きな構造変化として捉えようとするものです。


1.なぜ世界で物価が上がるようになったのか

1980年代から2000年代初頭にかけて、世界では貿易自由化が進み、企業は国境を越えて最も効率的な場所で生産するようになりました。安い労働力や原材料を利用し、世界規模のサプライチェーンを構築することで、生産コストを抑えることができました。この時期は、物価と経済成長が比較的安定した時代でもありました。

しかし、その環境は次第に変化します。世界金融危機、英国のEU離脱、米国での保護主義的政策の強まり、新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻などが相次ぎ、国際物流やエネルギー供給に大きな混乱が生じました。企業は、効率性だけを求めて遠隔地で生産するのではなく、自国や近隣国で生産することや、サプライチェーンを安全保障の観点から見直すことを求められるようになっています。その結果、人件費や生産コストが上昇し、世界的に物価を押し上げる圧力が強まっています。

つまり、現在のインフレは単なる景気循環だけではなく、グローバル化を前提とした低コスト経済そのものが変化していることとも関係しています。


2.円安はなぜ私たちの生活を圧迫するのか

日本は、エネルギーや食料の多くを海外から輸入しています。そのため円安になると、同じ商品を輸入するために、より多くの円を支払わなければなりません。原油や天然ガスなどの価格上昇と円安が重なれば、企業の仕入れ価格はさらに上昇します。企業がそのコストを商品価格に転嫁すると、私たちが日常的に支払う物価も上がります。

特に2022年以降、日本では円安と物価上昇が同時に進みました。世界の主要中央銀行がインフレを抑えるために相次いで金利を引き上げる一方、日本銀行は長く大規模な金融緩和を続けました。そのため日本と海外との金利差が拡大し、円安を促進する一因となりました。円安によって輸入価格が上がり、それが国内の物価を押し上げる。そして物価上昇を抑えるためには金利を上げる必要が生じる。現在の日本では、円安、インフレ、金利が相互に関係する構造が生まれています。


3.日本を覆った「30年のデフレ」

現在の変化を理解するためには、その前に日本で何が起きていたのかを見る必要があります。日本は1990年代以降、長期間にわたり、物価、賃金、金利がほとんど上がらない経済を経験しました。バブル崩壊後、企業は経営の安定を優先し、人件費や設備投資を抑えるようになりました。金融危機、リーマンショック、東日本大震災、そしてパンデミックなど大きな危機が相次いだことも、企業に「次の危機に備えて資金を蓄える」という行動を促しました。

賃金が上がらなければ、家計の購買力も伸びません。消費が伸びなければ、企業も価格を上げにくくなります。物価が上がらなければ、企業の売上げや賃金も増えにくい。こうして、低賃金、低物価、低成長が互いに支え合う構造が形成されました。長期雇用を守るために正社員の賃金を抑え、非正規雇用を増やすという企業行動も、この構造を支える要因となりました。

松本氏は、日本の慢性デフレは単なる経済現象ではなく、危機の中で雇用や企業経営を守ろうとした結果として社会全体に定着した側面もあると指摘します。


4.「高い日本」から「安い日本」へ

この30年間、日本円の国際的な価値も大きく変化しました。為替というと「1ドル何円か」というドル円相場に目が向きますが、国際的な競争力を見るためには「実質実効為替レート」という指標も重要です。これは、ドルだけではなく、ユーロやポンドなど主要通貨との関係や、それぞれの国との貿易量、物価水準の違いを考慮して、円の実質的な価値を示すものです。

日本では長期間にわたり物価と賃金がほとんど上昇しなかった一方、海外では物価と賃金が上昇してきました。その結果、名目上の為替レート以上に、国際的に見た日本の価格や賃金は低下しました。かつて日本企業が「円高」に苦しんでいた時代から、現在では、海外から見ると日本の商品やサービス、そして労働力が相対的に安く見える「円安」の時代へと大きく振れています。

松本氏は、この30年間を、過度な実質円高から過度な実質円安へと日本経済が大きく振れた時期として捉えています。


5.2022年以降、何が変わったのか

長く続いたデフレの構造にも、2022年頃から変化が現れました。第一に、企業が価格を上げるようになりました。それまでは「価格を上げれば顧客が離れる」と考え、コストが増えても企業側が吸収する傾向がありました。しかし、原材料やエネルギー価格が広く上昇する中で、企業は価格転嫁を行うようになりました。

第二に、賃金が動き始めました。物価上昇によって生活費が増えたことで、労働者側の賃上げ要求も強まりました。春闘でも高い賃上げ率が見られるようになり、「賃金は上がらない」という長年の前提にも変化が生じています。

第三に、日本銀行の金融政策も転換しました。日本銀行は、長く続けてきた大規模な金融緩和から、徐々に金融政策の正常化へと移行しています。これまで日本では「金利はほぼゼロ」という状態が当たり前でした。しかし、物価と賃金が動き始めれば、金利もまた経済の調整手段として機能するようになります。

日本はいま、約30年間続いた「金利のない世界」から「金利のある世界」へ移行しようとしているのです。


6.なぜ長期金利は上がるのか

金利には、住宅ローンなどに直接関係する短期的な金利だけでなく、10年国債などの長期金利があります。長期金利は、将来の金利がどうなるかという市場参加者の予想を反映します。「今後、日本銀行はさらに政策金利を上げるのではないか」「物価上昇が長く続くのではないか」と市場が予想すれば、長期金利も上昇します。

さらに長期金利には、将来の不確実性に対する上乗せ分があります。これを「タームプレミアム」と呼びます。10年間資金を固定する場合、その間にインフレが進んだり、財政状況が悪化したりする可能性があります。投資家は、そうしたリスクを負う代わりに、より高い利回りを求めます。つまり長期金利は、単に中央銀行の政策だけでなく、将来の物価、景気、そして財政への市場の見方も反映する指標なのです。


7.金融政策と財政は切り離せない

日本銀行は2013年以降、大量の国債を購入する量的・質的金融緩和を進めてきました。その結果、日本銀行は現在、国債市場で非常に大きな存在となっています。金融緩和を縮小する際、日本銀行が国債購入を急激に減らせば、国債価格が下落し、長期金利が大きく上昇する可能性があります。そのため、金融政策の正常化は慎重に進める必要があります。

一方で、日本政府は金融危機、震災、パンデミックなどへの対応を通じて公的債務を増やしてきました。将来も大規模災害や経済危機が起きる可能性を考えれば、政府が必要な時に十分な財政支出を行える余地を残しておくことも重要です。財政への信認が低下すれば、投資家は国債を保有することへのリスクをより強く意識し、より高い金利を求める可能性があります。したがって、「金利のある世界」では、金融政策だけでなく、政府の財政運営もこれまで以上に重要になります。


8.「金利のある世界」で問われるもの

日本は長い間、「物価は上がらない」「賃金も上がらない」「金利もほぼゼロ」という環境の中にありました。しかし、その前提はいま変わり始めています。グローバル化の後退や地政学リスクによって、世界的に生産コストが上昇しやすくなっています。日本では円安が輸入物価を押し上げ、企業は価格転嫁を行い、労働者は賃上げを求めるようになりました。そして日本銀行も金融政策の正常化を進めています。かつて日本社会では、円高によって輸出企業が苦しみました。現在は逆に、円安による物価上昇によって家計が苦しむ社会になっています。これは単なる為替レートの変化ではありません。日本経済の構造そのものが変化しているということです。

今後、日本が「金利のある世界」にどのように適応するのか。物価と賃金の好循環を生み出せるのか。金融政策の正常化と財政の持続可能性を両立できるのか。そして、地政学的な危機や世界経済の変化の中でも、家計や企業が安心して経済活動を行える環境を維持できるのか。長く続いた低金利の時代が終わろうとしている今、日本経済は新たな選択を迫られています。