講演録・記録 

民主主義が揺らぐとき、何が失われるのか―選挙、自由、情報、そして国際政治

開催日 2026年7月24日(金)

東洋英和女学院国際関係研究所主催 連続講演会「グローバルリスクと社会―不確実な世界を生き抜く」

世界が大きく変化し、これまで当然と考えられてきた制度や社会のあり方が揺らいでいます。本連続講演会では、政治、経済、国際関係、社会など多様な視点から、現代社会が直面する「グローバルリスク」を考えます。

※本稿は講演内容をもとに、ウェブ掲載用に構成・編集したものです。

講師プロフィール

市原麻衣子(いちはら・まいこ)
一橋大学大学院法学研究科教授。国際政治学を専門とし、民主主義と国際政治の関係、民主主義外交、人権外交、市民社会、権威主義国による対外影響工作などを研究している。


概要

近年、世界各地で「民主主義の後退」が指摘されています。しかし、そもそも民主主義とは何を意味するのでしょうか。選挙が行われていれば、その国は民主主義国なのでしょうか。

民主主義と国際政治の接点を研究する市原麻衣子教授は、まず民主主義の基本的な定義から議論を始めます。自由で平等な選挙だけでなく、言論や報道、集会・結社といった市民的自由が保障されて初めて、民主主義は実質的に機能します。本講演では、現在世界で起きている民主主義の後退を、制度だけでなく、それを支える社会的規範、ポピュリズム、SNSやAIを通じた情報操作、さらには国際政治における「民主主義」という言葉の使われ方から考察します。

民主主義とは単なる政治制度なのか、イデオロギーなのか。それとも、自由や人権、法の支配を支える社会のあり方そのものなのか。現在の国際社会を考えるための重要な問いを提示します。


1.民主主義とは何か―選挙だけで十分なのか

民主主義には、いくつかの定義があります。最も基本的なものは、自由で平等な選挙が定期的に行われ、一定年齢以上の国民に広く投票権が保障されていることです。しかし、本当に選挙が自由で平等に行われているかを考えると、それだけでは十分ではありません。与党だけでなく野党も自由に選挙に参加できること、政府を批判できること、メディアが自由に報道できることなどが必要です。

つまり、自由で平等な選挙を成り立たせるためには、言論の自由、報道の自由、集会・結社の自由、信教の自由といった「市民的自由」が保障されていなければなりません。現在、世界各地で問題となっているのは、選挙そのものがなくなることよりも、選挙を成立させているこうした自由が徐々に弱体化していることです。

その意味で、「民主主義が揺らいでいる」というよりも、より正確には、民主主義を支える自由主義が揺らいでいると見ることができます。


2.なぜ民主主義は重要なのか

では、なぜ民主主義は必要なのでしょうか。経済学者アマルティア・センは、民主主義には三つの重要性があると論じています。

第一は、本質的な重要性です。人間が幸福に生きるためには、自分の人生について自分自身で選択できる自由が重要です。第二は、手段としての重要性です。人々が「このような社会にしたい」「この政策を変えてほしい」と自由に表明できることで、政府は人々が何を必要としているのかを知ることができます。そして第三は、建設的な重要性です。人は最初から、自分がどのような社会を望んでいるかを完全に理解しているわけではありません。他者と議論し、異なる意見に触れ、互いに学ぶことによって、自分自身の考えも形成されていきます。

民主主義とは、単に多数決によって意思決定をする仕組みではありません。人々が自由に考え、話し合いながら、自分たちの社会のあり方を形成していくための仕組みでもあります。


3.「参加」と「競争」が失われる民主主義

民主主義は歴史的に、一方向に拡大してきたわけではありません。民主主義国が増える時期と減少する時期を繰り返してきました。現在は、その「揺り戻し」の局面にあります。

民主主義研究者ロバート・ダールは、民主主義には市民の「参加」と政治的な「競争」が必要だと論じました。投票権を持っていても、選択できる政党が一つしかないのであれば、実質的な参加とはいえません。また、有権者が十分な情報を得て判断できること、何を政治的な議題とするかを市民自身が決められること、多様な人々が政治参加から排除されないことも重要です。

ところが現在、選挙を実施しながら野党を排除したり、投票を操作したり、議論できるテーマを制限したりする国が増えています。民主主義は、制度を残したままでも中身を失うことがあるのです。


4.民主主義を守っているのは制度だけではない

民主主義には、選挙制度、三権分立、法の支配、基本的人権の保障など、さまざまな制度があります。しかし、制度だけで民主主義は維持できません。その周囲には、制度を尊重しようとする慣習や価値、規範があります。制度が変更されなくても、それを支える規範が崩れることで民主主義は弱体化します。

民主主義を守るのは、憲法や法律だけではありません。それを日常的に支える社会の価値観や行動も重要なのです。


5.ポピュリズムと社会の分断

現在、民主主義を弱体化させる要因の一つとして、ポピュリズムが指摘されています。ポピュリズムでは、「腐敗したエリート」と「正しい人民」という対立構造がつくられることがあります。既存の政治制度はエリートによって支配されているのだから、強い指導者がそれを打破し、「人民の意思」を直接実現すべきだという考え方です。その結果、議会での議論、司法によるチェック、メディアによる批判など、本来権力を抑制するために存在する制度が「意思決定を邪魔するもの」とみなされることがあります。

さらに、選挙で多数派を形成するために、移民や宗教的少数者などを「社会の問題の原因」と位置づける政治もみられます。「彼ら」から「われわれ」を守るという構図をつくることは、人々を政治的に動員するうえでは有効です。しかし、その結果、少数者の権利が侵害され、社会の分断が深まる危険があります。


6.情報空間から揺さぶられる民主主義

現代の民主主義への脅威は、国内だけから生じるものではありません。一部の権威主義国家は、他国の民主主義社会を分断し、不安定化させるための情報工作を行っています。SNSを通じた偽情報(disinformation)だけでなく、事実の中から特定の情報だけを意図的に選んで発信し、人々の認識や感情を誘導することもあります。

さらに、SNSのアルゴリズムやAIの発展によって、大量の情報を短時間に生成し、拡散することも可能になりました。民主主義において、市民が十分な情報を得て、自ら判断することは不可欠です。


7.国際政治で利用される「民主主義」

一方、市原氏は、民主主義という言葉自体が国際政治の中でイデオロギーとして利用されてきたことにも注意を促します。

第二次世界大戦期には「ファシズム対民主主義」、冷戦期には「共産主義対民主主義」、冷戦後には「権威主義対民主主義」という構図が語られてきました。こうした言説は、一見すると民主主義を守るためのものに見えます。しかし、実際には民主主義そのものを守るというよりも、「民主主義国」とされる国家の安全保障や利益を守るための言葉として使われています。

民主主義という価値を掲げているからといって、その政策が必ずしも民主主義そのものを強化するとは限りません。民主主義という言葉が何のために使われているのか。その背後にある政治的な目的を見ることが必要です。


8.日本外交と民主主義

日本外交においても、2000年代半ば以降、「民主主義」「自由」「人権」「法の支配」といった価値が強く語られるようになりました。「自由と繁栄の弧」「価値観外交」、そして「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」などがその例です。

これは戦後日本外交にとって大きな変化でした。戦前に価値や理念を掲げながら対外膨張を進めた経験から、戦後の日本外交には、特定の価値を前面に出すことへの慎重さが長く存在していたためです。

しかし、市原氏は、日本外交で「民主主義」が強調された背景には、他国の民主化そのものを支援するというよりも、民主主義国との安全保障協力を強化するための共通項として使われてきた側面があると指摘します。

また、東南アジア諸国などから、「日本か中国か」という二者択一を迫られているように感じるとの警戒が示される中、日本外交では徐々に「民主主義」そのものよりも、「法の支配」や「説明責任」といった、より幅広い国々が共有しやすい概念が用いられるようになりました。民主主義という言葉を強く掲げること自体が目的なのではなく、その中にある価値をどのように実現するのかが重要なのです。