東洋英和女学院国際関係研究所主催 連続講演会「グローバルリスクと社会―不確実な世界を生き抜く」
世界が大きく変化し、これまで当然と考えられてきた制度や社会のあり方が揺らいでいます。本連続講演会では、政治、経済、国際関係、社会など多様な視点から、現代社会が直面する「グローバルリスク」を考えます。
※本稿は講演内容をもとに、ウェブ掲載用に構成・編集したものです。
講師プロフィール
藁谷友紀(わらがい・ともき)
東洋英和女学院大学学長。早稲田大学名誉教授。Dr.rer.pol. 経済学・経営学を専門とし、構造変化などを研究。1989年のベルリンの壁崩壊当時ドイツに滞在し、その後、外務省専門調査員としてベルリンで計画経済から市場経済への移行過程を調査した。
概要
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊は、東ドイツ政府高官の記者会見での「言い間違い」がきっかけだったと、しばしば説明されます。しかし、一つのコミュニケーション・エラーだけで、40年近く続いた国家体制が崩壊するのでしょうか。
経済学・経営学を専門とし、「構造変化」を長年研究してきた藁谷友紀学長は、1989年当時、西ドイツのボンに滞在。その後、外務省専門調査員としてベルリンに赴き、計画経済から市場経済へと移行する旧東ドイツ社会を間近で見てきました。
本講演では、その経験と経済データを手がかりに、ベルリンの壁崩壊以前から進んでいた東ドイツ経済の変化、ドイツ統一後の社会的混乱、そしてNATOをめぐるロシアと西側の認識の違いへと議論を広げます。
1.「構造変化」とは何か―量ではなく「質」が変わるとき
私の専門は経済学と経営学です。とりわけ長い間テーマとしてきたのが、「構造変化」です。経済学は、成長率が上がった、下がったというような「量的変化」を扱うことを得意としています。しかし、構造変化はそれとは違います。構造そのものが変わるということは、「質的変化」が起きるということです。
質的変化を考えた代表的な人物の一人がマルクスです。マルクスは、生産力を「下部構造」と、制度、法律、ものの考え方などの「上部構造」とし、その関係から社会の変化を考えました。生産力は変化していくのに、制度や組織、ものの考え方はすぐには変わりません。両者のずれが大きくなり、やがて耐えきれなくなると、上部構造が大きく動く。こうした質的な変化を、革命という形で捉えたわけです。
もう一人、質的変化を考えるうえで重要なのがシュンペーターです。戦後の経済学では、景気や失業など量的な問題を扱うケインズ経済学が大きな影響力を持ちました。それに対してシュンペーターが考えたのは、イノベーションによって経済そのものの構造が変わるという問題でした。
そして、そのイノベーションを担うのが「起業家(entrepreneur)」です。既存の仕組みの中で経営するだけではなく、新しいものを生み出し、それによって経済の構造そのものを変えていく。こうした問題を考えるために、私は経済学だけでなく経営学も研究してきました。
2.ベルリンの壁崩壊は「言い間違い」から起きたのか
私は1989年、ドイツのボンにいました。その年の11月にベルリンの壁が崩壊します。ベルリンの壁崩壊については、東ドイツ政府の広報担当責任者だったギュンター・シャボフスキーの記者会見での発言がきっかけだった、という話がよく知られています。
当時、東ドイツ政府は国民の西側への旅行を緩和しようとしていました。ただし、自由に行けるようにするのではなく、役所に申請し、審査を経て認められた人が行けるという制度を考えていました。ところが記者会見で、イタリア人記者から新しい旅行規則について質問されたシャボフスキーは、事実上「直ちに」実施されると受け取られる説明をしてしまいます。それを知った東ベルリン市民が検問所に殺到しました。現場では収拾がつかなくなり、ついにゲートが開かれる。それがベルリンの壁崩壊につながりました。
このため、ベルリンの壁崩壊は一種の「コミュニケーション・エラー」によって起きたと説明されます。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。
後に、この質問をしたイタリア人記者リッカルド・エールマンは、自分の質問は東ドイツ政府側から依頼されたものだったという趣旨の発言をしています。もしそうであれば、単なる偶然ではなく、すでに維持することが困難になっていた体制を動かすための、ある種の意図されたコミュニケーションだったことになります。
いずれにしても重要なのは、「言い間違い」があったから突然すべてが変わった、とだけ考えてよいのかということです。その背後では、すでに大きな構造変化が進んでいました。
3.東ドイツの「極秘データ」が示していたもの
ベルリンの壁崩壊後、私は外務省の専門調査員としてベルリンに3年ほど滞在し、計画経済から市場経済への移行プロセスを調査しました。その際、旧東ドイツの計画経済を研究していた研究所のトップと知り合い、実物投資の時系列データを見せてもらう機会がありました。計画経済の中核部分を作り上げるための非常に重要なデータです。最初は担当者から「見るのはいい。しかしコピーは駄目だから書き写しなさい」と言われ、毎朝研究所に通って数字を書き写しました。そのうち担当者とも親しくなり、最後にはコピーを取らせてもらえるようになりました。
「実物投資」という数字は重要です。GDPを考えるとき、家計の経済活動を代表するのが消費であり、企業の経済活動を代表するものの一つが投資です。しかも実物投資は、その時点での経済活動(フロー)だけでなく、工場や機械といった将来の生産能力(ストック)にもつながります。そこで、この数字を時系列で見てみました。すると、非常に興味深いことが分かりました。
4.経済が悪化するほど「成長」していた東ドイツ
計画経済では、政府が「今年はこれだけ生産しなさい」という目標を設定します。目標を達成できなければ困るので、第4四半期になると帳尻を合わせる。東側諸国の経済データには、そのような計画経済特有の季節変動が現れます。
ところが東ドイツのデータを見ると、1980年代半ば以降、奇妙な動きが見えてきます。実際の東ドイツ経済は悪化し、日常生活用品の供給にさえ支障が出始めていました。それなのに、統計上の実物投資の額はどんどん増えていくのです。経済が苦しくなる。すると、前年より高い生産目標を設定する。しかし実際には達成できない。それでも数字の上では「達成した」ことにする。そして翌年は、さらに高い目標を設定する。そうして、実態とは逆に、統計上は高度経済成長をしているかのような数字になっていきました。
つまり、データそのものは実態を正確に表していない。しかし、その「歪み方」を見ることで、逆に体制がどれほど追い詰められていたのかが見えてくるのです。ベルリンの壁が崩れたのは1989年です。しかし、構造的な変化は、その何年も前から始まっていたと考えることができます。
5.石油危機に「守られた」ことが東側の弱点になった
なぜ東ドイツ経済はそこまで弱くなっていったのでしょうか。一つの重要な要因が、1973年の第一次石油危機と、その後の第二次石油危機です。日本は第一次石油危機で大きな打撃を受けました。エネルギーや資源を海外に大きく依存していたからです。しかし、その大きなショックを受けたからこそ、日本企業は否応なしに新しい経済環境への適応を迫られました。
一方、東側諸国の経済システムは、社会主義圏における分業体制と言えます。それぞれの国が得意分野を担当し、お互いに助け合う仕組みです。そのため、石油危機による最初のショックは西側ほど大きくありませんでした。ところが、「ショックが小さい」ということには別の側面があります。新しい環境に適応する必要性も弱かったのです。石油価格が上昇し、世界経済の条件が大きく変化しているにもかかわらず、従来の仕組みを維持することができてしまった。その結果、必要な構造調整が遅れ、その影響が1980年代になってボディーブローのように効いてきたのではないかと考えられます。
6.ドイツ統一と「1対1」という政治的決断
ベルリンの壁が崩壊した翌年、東西ドイツは統一されます。その際、社会と経済の行方を大きく左右したのが、東ドイツ・マルクと西ドイツ・マルクの交換比率でした。
実態から考えれば、東西の経済力、すなわち通貨価値にはかなりの差がありました。また、政治的判断が加わったと言われます。当時のコール首相にとって、統一後の選挙は重要でした。もし交換比率が10対1なら、東ドイツ市民の預金は西ドイツ・マルクに換算した瞬間に10分の1になってしまいます。1対1ならば、自分たちの資産は減額することなく守られる。政治的には非常に理解しやすい選択です。原則1対1もしくは2対1が採用されました。
その代償は大きなものでした。旧東ドイツの企業は、一気に西側と同じ条件で競争することになります。競争力を持たない輸出企業の多くは生き残れませんでした。本体を傷つける交換比率ということで「胴体着陸」と表現されました。時間をかけて競争力のない企業を温存するよりも、一度厳しい調整を行い、競争力ある経済を早くつくる。その方が経済全体としては合理的だ、という考え方です。
7.経済合理性だけで「社会」は維持できるのか
しかし、その結果、大量の失業者が生まれました。失業した人々については、失業保険など社会保障によって生活を支えればよい。経済政策の役割は競争力のある経済をつくることであり、失業者への対応は社会保障政策の問題である。主張された一つの経済学的な考え方でした。
しかし、実際に社会を見ていると、それでは社会はもちませんでした。人口の非常に大きな割合が職を失った社会で、社会保障の枠組みで人々にお金を給付すれば、それで社会が安定するのか。そうではありません。東ドイツの国有企業を民営化する役割を担った信託庁をめぐって、激しい社会的対立も起きました。
私自身、当時ベルリンに住んでいましたが、駐車していた車の近くで車両に火がつけられたこともありました。西側から来た公務員に対する反発が非常に強かった時代です。経済的な合理性と、社会が受け入れられる変化の速度は、必ずしも同じではありません。人間の社会は、所得を保障するだけで維持できるものなのか。ドイツ統一後の経験は、この問いを私たちに突きつけているように思います。
8.ドイツ統一をめぐるゴルバチョフと西側の交渉
東西ドイツの統一を考えるうえでは、当時のソ連のゴルバチョフ書記長との交渉も重要です。大きな問題の一つが、ポーランドとの国境でした。統一の際の条件は、オーデル・ナイセル川の国境、第二次世界大戦後に確定した国境を旧西ドイツも受け入れることで解決しました。もう一つが、統一ドイツがNATOに入るのか、それとも東側のワルシャワ条約機構に属するのかという問題です。最終的に、統一ドイツがNATOに加盟することをソ連側も認めました。
しかし、その後NATOは東方へ拡大していきます。ポーランドもNATOに加盟しました。そして、現在ではウクライナをめぐる問題があります。ロシア側から見れば、「あの時の約束と違うではないか」という認識が生まれます。
一方、西側からすれば、ポーランドなど東欧諸国がNATOに加盟するかどうかは、それぞれの主権国家自身が決める問題であり、ドイツ統一時の国境についての約束とは別の問題だということになります。同じ歴史的出来事についても、双方が持っている認識は異なります。
9.ベルリンの壁からウクライナを見る
ヨーロッパの歴史を考える際、日本にいる私たちには理解しにくいものの一つが「国境」かもしれません。
ヨーロッパでは、戦争によって国境が何度も動いてきました。ある地域が、ある時代には一つの国に属し、別の時代には別の国に属する。そのような経験を積み重ねています。現在のウクライナ問題については、もちろんウクライナ国内の民族問題など、さらに複雑な要因があります。しかし、現在だけを切り取って見るのではなく、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一、その際のソ連と西側との交渉、そしてその後のNATO拡大という長い時間軸の中で見る必要があります。
ベルリンの壁崩壊は、ある日の突然の出来事のように見えます。しかし、その背後には、長い時間をかけて進んでいた経済的・社会的な構造変化がありました。そして、その時に行われた選択や交渉は、30年以上を経た現在のヨーロッパにもつながっています。
「構造変化」とは、何かが突然起こる瞬間だけのことではありません。その出来事が起こるまでに社会の内部で何が変わっていたのか。そして、その時の選択が、その後の社会に何を残したのか。ベルリンの壁からウクライナまでを俯瞰することは、現在起きている出来事を、より長い時間軸の中で考えることでもあるのです。